すでに脆弱な世界経済を背景に、歴史的規模となる可能性のあるエルニーニョ現象が発生しつつあります。最大のリスクは気象現象そのものではなく、それがインフレ、コモディティ市場、そして経済成長にかかる既存の圧力をどのように増幅させるかにあるかもしれません。
今年6月に始まった今回のエルニーニョ現象のサイクルは、異例の強さになると予想されています。海水温が過去最高水準に達していることから、気候学者たちは、世界の海運ルートの混乱から農産物市場のボラティリティ拡大に至るまで、経済への重大な影響について警鐘を鳴らしています。
米国海洋大気庁(NOAA)は、2026年10月から12月にかけてエルニーニョが「非常に強い」レベルに達する確率を90%超、さらに歴史的規模の事象となる確率を69%と見積もっています。1
しかし、エルニーニョそのものが最大のリスクであるとは限りません。より大きな懸念は、すでに不安定な世界のマクロ経済環境との相互作用です。その環境は、米国とイランの紛争に起因するエネルギー価格の上昇、コモディティ市場の高いボラティリティ、根強いインフレ懸念、そして多くの新興国における金融政策の自由度の低下によって特徴づけられています。
重要な問いは、「エルニーニョが世界経済に影響を与えるかどうか」ではありません。問題は、その圧力がどこに、そしてどのような形で最も顕在化する可能性が高いのかという点です。
経済の観点から見ると、エルニーニョのような気象現象の影響を定量化することは従来容易ではありませんでした。しかし近年の研究では、その影響は決して小さくないことが示されています。例えば、1982~83年および1997~98年のエルニーニョは、その後5年間で世界経済の生産額を合計9.8兆ドル押し下げたと推計されています。2
1950年以降、エルニーニョは28回発生しています。その影響はさまざまで、直近の2023~24年のように比較的穏やかなケースもあれば、大きな被害をもたらしたケースもありました。研究によれば、その経済的影響は国によって大きく異なります。歴史的には、オーストラリア、チリ、インドネシア、インド、日本、ニュージーランド、南アフリカが平均して経済活動の落ち込みが大きかった一方で、米国や欧州はむしろ恩恵を受けてきました。3
特に参考になるエピソードが2つあります。1つ目は、1997~98年の「スーパー・エルニーニョ」です。この時はラテンアメリカやアフリカの一部で大規模な洪水を引き起こし、東南アジアでは深刻な干ばつをもたらしました。世界全体の経済損失は約2.1兆米ドルに達したと推計されています。4
2つ目は、2007~08年のエルニーニョです。この時は世界的な食料危機と重なり、その深刻化を助長した可能性があります。期間中、世界の食料価格は平均で約50%上昇しました。主要食料品の上昇幅はさらに大きく、ピーク時にはコメ価格が200%超、小麦価格が100%超上昇しました。5
現在のマクロ経済環境には過去のエルニーニョ局面と共通点もありますが、以下の3つの重要な違いがあります。
うした背景を踏まえると、エルニーニョは単独の経済イベントというよりも、「リスク増幅要因」として影響する可能性が高いと考えられます。つまり、世界経済ですでに顕在化しつつあるさまざまなストレスをさらに拡大させる要因となり得るのです。
世界の食料価格は上昇傾向にあるものの、2022年のロシアによるウクライナ侵攻後に記録したピーク水準を依然として大きく下回っています(図表1)。6
さらに、穀物在庫は過去10年以上で最高水準にあり、食料在庫も十分に積み上がっています(図表2)。
サプライチェーンと在庫は、米・イラン紛争によるエネルギー価格上昇というストレス要因がある中でも、引き続き高い耐性を維持しています。多くの国では食料インフレも依然として管理可能な水準にとどまっています。実際、世界全体で見ると、60%超の国々で食料インフレ率は5%未満となっています(図表3)。
もっとも、こうした良好な状況が長く続く保証はありません。現在の食料市場は、地政学リスクや供給制約といった複数の不確実要因に直面しており、その中でエルニーニョが発生しようとしています。
オーストラリアとインドネシアは、とりわけエルニーニョの影響を受けやすい国です。オーストラリア気象局は、エルニーニョと正のインド洋ダイポール現象(熱帯インド洋の南東部で海面水温が平年より冷たく、西部で海面水温が温かくなる現象)が重なることで、干ばつや森林火災のリスクが高まると指摘しています。7一方、インドネシア気象気候地球物理庁(BMKG)は、コメやパーム油の生産への影響に加え、泥炭地火災のリスク増大について警告しています。8
コメは、生産地域が集中していること、政策の影響を受けやすいこと、そして天候要因による不確実性が高いことから、引き続き食料インフレにとって最も影響を受ける食糧のひとつです。小麦、トウモロコシ、砂糖についても、生産地が異なるにもかかわらず、それぞれ供給面のリスクに直面しています。2007~08年の状況と同様に、現在は複数の食料供給システムで脆弱性が顕在化しつつあり、農産物価格全般に対する上昇圧力が広がる可能性が高まっています。
最終的に、エルニーニョが経済に与える影響は、需要の変化よりも供給の混乱によって左右される可能性が高いと考えられます。国際穀物理事会(IGC)は依然として過去2番目の規模となる穀物収穫を予想していますが、農産物価格は引き続き上昇基調にあります。これは、市場参加者が現在の在庫水準よりも、将来的にどこで供給が逼迫する可能性があるのかに注目し始めていることを示唆しています。
したがって、投資機会はコモディティそのものよりも、供給不足の緩和に貢献する企業や生産者にあるかもしれません。例えば、オーストラリアの小麦輸出が期待を下回った場合、競合する北米の供給業者が市場シェアを拡大する可能性があります。また、肥料メーカー、灌漑システム提供企業、種子技術企業、農作機械メーカーなどは、農家がより少ない水資源と不安定な気象条件のなかで収穫量の最大化を迫られるにつれて、その重要性が高まる可能性があります。
供給ショックの影響は、生産現場にとどまることはほとんどありません。歴史を振り返ると、食料インフレに対する政府の対応は、しばしば当初のショックをさらに増幅させてきました。例えば、輸出規制、補助金、備蓄放出などの市場介入策です。インドは過去にも、食料価格が上昇した局面でコメ、小麦、砂糖の輸出を制限してきました。このような措置は国内消費者の負担軽減には寄与する一方で、国際的な貿易フローやコモディティ市場を歪める可能性があります。
マクロ経済全体で見ると、供給ショックは急速に政策ショックへと発展し、為替市場や国債市場に影響を及ぼす可能性があります。市場では依然としてFRBの追加利上げの可能性が議論されるなか、食料インフレに直面する新興国の中央銀行は景気を支援する余地が限られています。そのため、通貨防衛を目的として、金利を長期間高水準に維持したり、さらに金融引き締めを行ったりせざるを得ない可能性があります。
その結果、自己強化的な悪循環が生じる可能性があります。食料輸入額の増加が経常収支を悪化させ、金融引き締めが景気を減速させ、さらに通貨安によって輸入コストが自国通貨ベースで一段と上昇するという流れです。今回のサイクルにおける大きな違いは、エネルギー価格上昇という要因が重なっていることです。燃料や肥料の価格が高止まりしていることで、サプライチェーンのあらゆる段階でインフレ圧力が強まり、通常のエルニーニョ局面以上に物価への影響が大きくなる可能性があります。その結果、単なる気象イベントが、より広範なマクロ経済イベントへと発展する可能性が高まっています。